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トスカーナの歴史

ペルージャ Perugia

 ペルージャはアレッツォの南東方向、直線距離でおよそ60kmに位置し、アレッツォから鉄道を利用して2時間弱で到着します。ペルージャ駅から見るとその旧市街地ははるか丘上、両者間の良好な連絡が懸案だったと思われますが、近年、ミニメトロと呼ばれる新交通システムが整備されたとの情報をネットで入手していました。駅を出て左に進むと、ありました、モダンでかっこいいミニメトロの駅舎が。(ストリートビューは道路脇のミニメトロ駅舎前には連れて行ってくれないのです)。このまさに現代的な交通機関がイタリアでも最古の歴史を持つペルージャを貫いて、そこをコンヴィーニエントな場所にしているのは痛快事と言っていいでしょう。(ミニメトロは旧市街地に入ると地下を走行し、景観に影響を与えることはありません)。早速、ミニメトロに飛び乗って旧市街地の中心に向かったわけです。
 自販機での切符購入に若干手こずったものの、ミニメトロの快適さを満喫しながら到着したペルージャの旧市街地、そこは実にダイナミックな場所でした。丘上の都市は少なからず経験してきたはずでしたが、激しい起伏をうまく利用しながら、美的感覚に裏打ちされた快適性をとことんまで追求していったかのような都市造りは新鮮な驚きに満ちていました。人間の快適な居場所をつくるという確固とした意志があって、平坦地では想像すらできない創意工夫を重ねながら、それが激しい情熱をともなって具現化していったことが伺われるのです。人間が都市を造り、都市が人間を造るという必然の関係を、ここペルージャでより鮮明に捉えることができます。
 平坦地の都市が水平の視界で構成されているとしたら、ペルージャの街はほぼ球体を射る視界で構成されていると表現できるかもしれません。とにかく前後、左右はもちろんのこと、斜め上も斜め下も視界に収めることが街歩きの必須の条件となるという次第なのです(ペルージャでは人間にかぎらず、すべての動物は自然にそうすることになるわけですが)。ですから二次元平面に定着した地図や航空写真から想像される場所のイメージと現実空間の乖離は相当なもので、実際に足を運べば、あっと驚くような場所がいたるところに用意されています。
 ではこうしたペルージャはどのような時を経てきたのか、以下にその歴史の概略を紐解いてみましょう。
  ペルージャ周辺では紀元前11〜10世紀頃に村落の形成がはじまり、同8世紀になると、その範囲は現旧市街地のある丘上まで伸展していきます。テヴェレ川という大きな河川と、エトルリアとウンブリアの境界地域を支配していたことが、ペルージャの急速な発展をもたらすのです。ペルージャはウンブリア人の居住地でした。彼らは都市を建設したのですが、境を接する異民族と頻繁に接触し、結局、エトルリア人の進入を許すことになったのでしょう。ちなみに、エトルリア人は300のウンブリア人都市を征服したと大プリニウス(紀元23〜79年)は書いています。ペルージャに残るエトルリア特有のネクロポリスの配置状況は、紀元前6世紀後半に本物のペルージャの中心核が形成されたこと、そこから最初の都市網が展開していったことを示唆しています。
 ペルージャ(当時名、ペルシア Perusia)はやがてエトルリア連邦国家を構成する12の都市のひとつとなります。紀元前310年頃、ペルージャはエトルリアの他都市と連合し、北方に展開してきたローマ軍と対峙します。このとき両者間で30年の休戦協定が結ばれるのですが、紀元前295年、ペルージャは協定を破って第三次サムニウム戦争(共和政ローマとアペニン山脈に居住するサムニウム人部族との間で勃発した戦争)に反ローマの立場で参戦、結果、ペルージャとその連合都市、ヴォルシニ(Volsinii)とアッレティウム(Arretium、現アレッツォ)は征服され、ローマの支配下に入ります。
 第二次ポエニ戦争の間、ペルージャはローマへの忠誠を示し、紀元前217年のトラジメーノ湖畔の戦い(トラジメーノ湖はペルージャの西20kmに位置する)では、敗走するローマ軍の避難場所を提供しています。同盟市戦争に続く紀元前1世紀初頭、ペルージャはローマと統合され、紀元前89年にローマ市民権を得るのですが、紀元前41-40年にはマルクス・アントニウス一派とオクタヴィアヌス(初代皇帝アウグストゥス)との内乱の舞台となり、アントニウスの弟ルキウスが籠もったペルージャはオクタヴィアヌスに焼かれてしまいます。皇帝アウグストゥスは間もなく、エトルリア時代の道路を保存しながらローマ流に都市を再建し、そこは“アウグストゥスのペルシア(ペルージャ)”と呼ばれるようになります。しかし、ローマ諸都市の最高位である“コロニア”になるのは紀元3世紀前半になってのことです。
 以降、東ゴート王、トーティラに反抗したウンブリア地方唯一の都市として描かれるまで、ペルージャが歴史に登場することはほとんどありません。547年、トーティラは長期にわたる包囲戦の後、ペルージャを占領し、荒廃させます。このため市民を代表して市の司教、エルコラーノが包囲軍との交渉役を担うのですが、トーティラはエルコラーノを皮剥ぎのうえ斬首刑に処するのです。後にエルコラーノは市の守護聖人に祭られます
 ロンバルド王国時代、ペルージャはトゥーシア(トスカーナ州全域、ウンブリア州の大部分、ラツィオ州北部を含むエトルリア南部の歴史的呼称)の主要な都市のひとつとなります。8世紀から9世紀ににかけて、カロリング朝はランゴバルド王国から奪ったペルージャを含む中部イタリア領をローマ教皇庁に寄進し(それは両者の体制維持にとって好都合だったからです)、教皇領となったペルージャは続く2世紀のあいだ司教の支配のもとに置かれるのです。しかし、その間も独立の気風を変えることはなかったといいます。
 12世紀のはじめになると、ペルージャの権力は一般集会とより小さな議会とに二分され、最初の行政官統治がはじまります。それは自治都市の誕生を意味するでしょう。この世紀の後半から13世紀にかけて、ペルージャは武力をもって周辺都市にその勢力を広げ、14世紀中葉に至るまで大きく発展していきます。こうしたなか、1186年には後の神聖ローマ皇帝、ハインリッヒ6世から外交権を下賜され、それを受けて、ローマ教皇インノケンティウス3世はペルージャの活動を法的効力のあるものと認めることになります。
 この時期、市は、プリオーリ宮殿を本部とし、芸術会員から選ばれた市長を頭とする商人たちの行政府によって運営されていました。1308年には大学が設立され、1342年には地方言語で書かれた法令が生まれます。
 一方、教皇たちはローマの喧騒から逃れるかたちで、ここペルージャで5回のコンクラーベを開催しています。しかし、だからといってペルージャが教皇の関心事に役立とうとしたわけでも、教皇の統治権を認めたわけでもまったくなかったのです。
 1369年、教皇側からの強制や寄付の強要に激しく反抗したペルージャは教皇ウルバヌス5世と戦争状態になります。結局、反抗は制圧され、翌1370年、ペルージャはローマ教皇の特使を迎え入れることを余儀なくされます。それでも1375年には教皇領の司教総代理ジェラー・デュプイを民衆蜂起により追放する事件が起きています。
 14世紀の間、市民の平和は、庶民党派対貴族党派の揉め事によって絶えず妨害されてきました。そして、ペルージャ王を自称していた傭兵隊長ビオルド・ミケロッティが暗殺される1398年以降、1416〜24年の傭兵隊長ブラッチョ・ダ・モントーネを首長とする安定した政権に入るまで(彼はローマ教皇とうまく折り合いをつけていたわけです)、ペルージャの支配者は次々に交替していきます。そのなか、街の主導権をめぐってオッディ家とバリョーニ家の残虐行為を伴う対立があり、最終的にバリョーニ家が権力を掌握して、1438〜79年の間、ペルージャに対して魔術的な支配権を行使するのです。
 バリョーニ家が権力を担う法的根拠はまったくなかったわけですが、ブラッチョ・イ・バリョーニは、ペルージャを支配していた傭兵隊長ブラッチョ・ダ・モントーネの孫という立場から、「聖座」を名乗る市民軍の隊長の地位に就いて、隠然たる力を振るうのです。この時代はバリョーニ家主導の拡大美化政策によって、ペルージャはウンブリアの中心都市として大きく成長します。道路の新設、プリオリ宮殿の拡張、新しい教会や礼拝堂の建設等が行われたほか、バリョーニ家の文化支援策によって、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ペルジーノ、ピントゥリッキオ、ラファエロ等の著名な画家を輩出し、ペルージャは重要な芸術の中心地として、ウンブリア・ルネサンスの中核を担うことになるのです。しかし、ブラッチョ・イ・バリョーニが死去した1479年以降、権力の継承をめぐってバリョーニ家内部で争いが生じ、それは結局、1500年6月の同族間の殺し合いに発展してしまいます。
 1540年、ペルージャと教皇パウルス3世の塩戦争は大きな転機となりました。教皇領でありながら自由な裁判権や塩への課税免除という特権を与えられ、半自治都市としてやってきたペルージャは、この戦争の敗北によって教皇の決定的な支配の下に置かれることになります。塩戦争が起こった経緯はこうでした。
 1539年のひどい不作はペルージャとその周辺地域で物価の高騰を招いていました。きびしい経済状況のなか、パウルス3世は教皇領のすべての国民に新たな塩税を課すことを決めます。これはペルージャにとって、これまでの教皇との協約にも、パウルス3世自身の教皇就任時の協約にも反することでした。ペルージャは反発し謀反を起こしますが、パウルス3世の息子ピエール・ルイージ・ファルネーゼ率いる教皇軍に包囲され、明け渡しを余儀なくされます。その後、パウルス3世は教皇の駐屯軍を収容するための要塞の築造を命じます。バリョーニ家邸宅があった場所に築かれたこの巨大なパオリーナ要塞は、以降、教皇支配の象徴として機能し続けることになります。
 16世紀中葉からイタリア統一の1860年まで、ペルージャは他の教皇領地域と同化しながら、経済と人口の長期にわたる停滞期を経験することになります。それでもやはり、建築的・芸術的な遺産をもとに、ペルージャは一流の建物によって都市としての質を高め、多くの経験豊かなプロの名人の仕事を利用し続けていきます。今日、ペルージャを飾る多くの洗練された建物やバロック形式の権威ある教会はこの時代に建てられたものです。1797年、ペルージャはフランス軍に征服され、翌1798年の2月4日、ペルージャを首都とし、小型のフランス三色旗を国旗とするティベリーナ共和国が建国されるのですが、そのひと月後、ティベリーナ共和国はローマ共和国(1798〜1800年)に統合されます。
 19世紀に入ると度重なる地震がペルージャを襲います(1832年、1838年、1854年)。そして1859年には「ペルージャの大量虐殺」と歴史に刻まれる出来事が起きています。これは1859年6月20日、教皇の権威に反抗して暫定的な市政府を樹立したペルージャの愛国的市民に対し、ローマ教皇ピウス9世が派遣したスイス軍によって行われた大量虐殺事件です。翌1860年9月14日、ファンティ将軍率いる軍隊がペルージャに進入、パオリーナ要塞に立てこもる最後のスイス駐屯軍を降伏させ、ペルージャを解放します。こうしてついに、ペルージャは他のウンブリア地域とともに、イタリア王国に統合されるのです。この統合は同年11月の市民投票により正式なものとなります。
 第二次世界大戦のあいだ、ペルージャが被った損傷は若干のもので済みました。そして、1944年6月20日、ドイツ軍が放棄した数日後、聖ピエトロ門から進入してきたイギリス第8軍によって、ペルージャは解放されるのです。

 個人的な興味もあり、ペルージャの歴史を少々詳しく調べてみました(Wikipediaの英語版とイタリア語版を参照)。歴史のほんの断片に触れただけなのは承知していますが、ペルージャの歴史は日本の北端に住むものにとっては、ただすごいとしかいいようがありません。都市という身近な生活範囲においても、自由や独立が人間の流す血にうえに築かれてきたのだということがよくわかります。自由と独立の獲得について、こうした切迫性が必要不可欠だとは全然思いませんが、日本からみたペルージャの極限的とも思える歴史は実に興味深いわけです。
 ところで、いかなる歴史ともいかなる主義主張とも無関係に、都市はただ冷たい物と物で構成されています。とはいえ、その個々の物は人間によって、人間の熱い意思によって造られたのであり、都市を構成する物と物が都市に生きる人間を造っているのは明らかなことなのです。この曰く言いがたい関係のなかに都市と人間の関係を見ようとするのが筆者の基本姿勢であるわけです。
 と、まあ、こんな思弁は脇に置いて、ペルージャのフォトアルバムをご覧になってください。ペルージャのすべては当然カバーし切れてはいませんが、これらは2日間、精力的に歩きまわった結果です。息を呑んでシャッターを切った場面もたくさんあります。楽しんでご覧いただければうれしく思います。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影日時(現地時刻)◯◯月◯◯日◯◯時◯◯分を表示しています。