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フィレンツェ Firenze

 フィレンツェ訪問時の記憶は明瞭なのに、その内容が随分と混乱しているのはどうしてなのか、徒に長考を重ねてしまったわけですが、結局は都市規模の大きさによるものだろうと思われます。都市の大きさのイメージはある程度、そこに滞在する時間の長さに相関してます。とはいえ都市域が拡大するとどうしてもその求心性は希薄になっていきます。大聖堂とその周囲の広場は確かにフィレンツェの核ではあるのですが、そこからいわばスプロール的に拡散してモニュメンタルな建物や広場が点在しているように見えるのです。筆者の記憶が混乱している第一の原因はここにあるでしょう。
 ついでにフィレンツェの大聖堂(花の聖母マリア大聖堂=サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)について言いますと、度重なる拡張のせいか、周囲の広場は決して広いとはいえず、大聖堂のヴィスタが十分に捉えられなくなっています。このことも都市の求心性を減少させている一因と思われます。大きな建物を視界に十分に捉える、すなわち、大きな建物を十分に認識するには、その規模に見合った距離と大きさを持つ空間(=広場)が必要になります。そこが不足していると対象物が心象として明確に結像することはないのです。多くの物に囲まれている現実の生活ではなかなか気づかないところではありますが、対象物を認識するうえで決定的な点です。だからどうするかは別の話として、東京都庁の場合はどうなっているでしょうか。
 フィレンツェは世界有数の観光都市です。だからでしょう、名だたる教会は入場有料、そこに詰めかける観光客は長蛇の列をなし、入場まで数十分から1時間程度待ち、しかもようやく入った内部では撮影禁止という具合で、筆者のような人間にとってはまったくありがたくない街でした。並ぶのが大嫌いな筆者でしたが、結局は行列に加わるを得ず、消費時間に見合わない収穫の少なさに少々いらついていたようです。さらにそうした一連の流れを強要する資本主義的な環境に置かれた教会群は、聖と俗の弁証法を剥ぎ取られ、無残な存在になってしまったように思われたのでした。フィレンツェの印象を混乱したものにしているひとつの原因はここにあったかもしれません。
 フィレンツェの歴史は、いたるところに記述がありますから、ここでは割愛することとします(ウィキペディア日本語版等をご参照ください)。ただ、フィレンツェの歴史について、トピック的にいくつか追記しておきましょう。
 フィレンツェはローマの退役軍人を収容するための一都市として紀元前59年に造られた、と歴史に刻まれています。ではそれ以前の状況はどうだったのでしょう。第四紀の時代、海抜約50メートルにあるフィレンツェからピストイアにかけての一帯は大きな湖に覆われていました。水面の低下にともなって、平地には多くの池と湿地帯が点在するようになり、この状況は干拓が行われる18世紀まで続いていくことになります。
 紀元前10世紀から同8世紀にかけてのヴィッラノーヴァ文明期、すでに、アルノ川とその支流、ムニョーネ川の合流地点には集落があったと考えられています(ムニョーネ川はフィレンツェの北東6kmの丘にあるエトルリア起源の都市、フィエーゾレを始点とし、カシーネ公園付近でアルノ川に合流)。紀元前8世紀から同7世紀になると、有用な浅瀬であるこの付近をエトルリア人たちは発見し利用していたに違いありません。南と北から丘に挟まれたその場所は彼らにとって好都合な位置にあり、おそらく橋またはフェリーをヴェッキオ橋から10数m離れたところに建設したはずです。エトルリア人はしかし、外敵や洪水から身を守るために、平地に都市を建設することを好みませんでした。彼らはここで、平地のフィレンツェではなく、前掲の丘上にあるフィエーゾレ(当時名・ヴィプスル=Vipsul)に要塞都市を建設するのです。ヴィプスルは、北のエミリア地方から南のラツィオ州にいたるエトルリアの主要な都市と良好な道路網で結ばれていました。
 さてもう一点、時代は大きく下って現代、1966年の大洪水について少し解説を加えておきましょう。1966年11月4日の朝、長く続いた降雨のためにアルノ川が氾濫、フィレンツェは大洪水に見舞われます。死者101人を出したこの水難事故は、フィレンツェ史上、1557年以降での最悪のものと考えられています。
 フィレンツェとピサを貫きティレニア海に注ぐ全長240kmのアルノ川は、その水源を提供しているアペニン山脈の降雨量が最大になる春と秋に水嵩を増します。1966年の洪水の激しさは、アペニン山脈の山地形態学と都市開発の両者によって、さらに増大させられることになります。前者はアルノ川の流下速度と流下量を増大させる一因となり、フィレンツェ市街地では、溢れ出た水は細い水路となった街路で速度を増して市街地内部を破壊し、他方、橋は必要な川の流れを妨害することで氾濫原に激しい勢いで水を注ぐ結果をもたらしました。
 フィレンツェ市街地を最も深いところで5m以上も水没させたこの大洪水は、多くの人命を奪っただけでなく、歴史都市フィレンツェの貴重な文化遺産に甚大な影響をもたらしました。特に、損傷を受けた古文書類は数十万に上ります(それらの修復のために膨大な労力が費やされていますが、いまだに完了していません)。この惨状に多くの公的また私的な国際的な援助の手が差し伸べられます。泥に埋もれた歴史遺産を救い出すために参集した数千の若いボランティアたちは「泥の天使たち」と呼ばれ、20世紀における若者の自発的な動員の最初の例のひとつとなりました。
 というわけで、きれいに整理しきれませんでしたが、フィレンツェのグチャグチャの混乱したフォトアルバムを、そのまま以下に掲載することとします。この辺をご承知のうえ、お付き合いいただければさいわいです。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影日時(現地時刻)◯◯月◯◯日◯◯時◯◯分を表示しています。